演劇は今の時代に何ができるのか?
「戦場のピクニック」稽古見学記

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 せんがわシアター121の第1弾、「戦場のピクニック」初日が、いよいよ2日後に迫りました!

この作品を2月にリーディング公演として上演した際、舞台稽古を見学した市民サポーターの鬼弦さんによる見学レポートをお届けします。

ぜひご覧ください!

 

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「戦場のピクニック」  の舞台稽古を 25日に見学した。

スペインのフェルナンド・アラバール作品。この作品が息長く演劇人によって取り上げられているのは、登場人物の会話によって場面を構築していく演劇的な面白さとともに、表現する人間を刺激せずにはおかない内容があるからだと思う。

演劇は何のためにある?演劇に何が出来る?

「演劇」を「絵画」に差し替えても構わない。或いは「文学」に。今の時代に何が出来るのか。

 

昨年12月に上演した「アンデルセンの卵」と共に、このリーディング公演でも、その回答の一つを見ることができた。

衣装も装置もシンプル、俳優は座ったまま台詞と控え目な表情だけで演じる。それがリーディング公演だ。

しかし、訓練を積んだ俳優の力は素晴らしく、目を閉じて耳を澄ますと、生々しく動きが、情景が浮かんでくるのだ。

 

舞台はスペイン内戦の戦場。左派の人民戦線政府とフランコ率いる右派の反乱軍が争い、親兄弟、友人、隣人が敵味方に別れ、熾烈な殺し合いに身を投じ、やがてファシズムが台頭することになる。

その戦場に若い一人の兵士がいる。爆弾の炸裂する音、機関銃の音が支配する中で怯えている。やがて、その音が遠ざかると若い兵士が編み物を始める。しばらくすると兵士の両親が飲み物や食べ物を持ってやって来る。

人の良さそうな両親は戦場にもかかわらず、息子と共にピクニックを楽しみ、日常的な会話を交わす。そこへ敵兵が現れ、捕虜になる。二人とも若い、名前はザポとゼポ。まるで双子のような名前だ。戦場で敵を殺すことに畏れを抱く感性も、戦場という場で自らの心を鎮めるために編み物や造花作りをするのも同じだ。

なぜ敵なのか、なぜ殺し合うのか、彼らにも私たちにも分からない。普通の市民には分からない理由で、戦場に引っ張り出され、互いに銃を向けなければならない。

4人は穏やかにピクニックを続ける。スペインの舞曲をレコードで流しながら。

だが、この芝居にハッピーエンドなんてあり得ない。戦場に家族が現れることも、ピクニックをすることも、敵兵と理解し合うことも、あり得ない。戦場でただ一つリアルなのは殺し合うことだけだ。敵が居なければ戦場も殺し合いも成立しない。

敵は憎悪はどこから生み出されているのか。

私たちが戦うべきなのは何なのか。彼らは問いかけている。

 

演劇に何が出来るか。優れた演劇は坑道に伴われるカナリアのようなものかもしれない。

 

 (文 市民サポーター:鬼弦千枝子)

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このページは、staffが2013年5月 8日 10:39に書いたブログ記事です。

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